日曜日の昼下り、あるカップルの会話

 

「明日、仕事サボって温泉行かない?って誘ったら、くる?」

 

「えぇー、わたしが休んだら仕事たまっちゃうし、無理だよ。まわりも迷惑だろうし。」

 

「そこが君のいいところだよね。美徳っていうのかな。」

 

「そうかなー? 迷惑かけるのが嫌なだけなのかも。美徳っていうか…義務?」

 

「しかしその美徳を続ける先に幸せはあるのかね?」

 

「義務感でやってたら幸せは感じないだろうねぇ」
「『ありがとう』って声かけてもらったそのとき、充実感感じるけど。」
「統計でもでてるみたいだけど、人が一番幸せを感じられるときって『誰かに必要とされている』ってことを感じられる瞬間っていうよね。」

 

「つまり、明日仕事をサボって温泉にいくことは、君にとっての幸せにはつながらない、と。」

 

「うーん…。少なくともわたしは他の友だちが働いているときに、

 仕事サボって温泉に入っても、心から『あぁ〜幸せ』とは感じられない、ような気がするなぁ」
「前々からちゃんと休みをとってれば、心からのびのびと温泉を楽しめるとおもう。」

 

「ふーん、健全だねぇ。いいねぇ。」

「ねぇ、でも、平日の昼から風呂に入るってのは本当に最高だよ。
ほとんど人がいないし、お湯はきれいだし、陽がさしていればキラキラ明るいし。」

「一度覚えたら忘れられないし、またもう一度行きたくなる。」

「明日行こうと思っているその温泉は、

 そばに小川が流れていて、すぐ近くに蕎麦屋もあるんだ。」
「風呂あがりに冷奴と板蕎麦で飲む冷酒がまた美味しいんだよね。」
「今の陽気なら、きっとせせらぎを抜ける風も気持ちいい。」
「風になびく君の髪もきれいだろうな。」
「このまえ写メで見せてくれた、浅葱色のワンピースあったじゃない。あの丸襟のおしゃんなやつ。
 あれ着ていったらいいと思うよ。きっと素敵だと思う。君の写真を撮るよ。」

 

「…」

 

「どう、行きたくなってきた?」

 

「…ちょっと。」

 

「えっ?なに?」

 

「………ちょっと、行きたくなってきた。」

 

「でしょ!? でしょでしょ!?」

 

「人に必要とされることも大事だけど、今しかできないことをやりたいよね!」
「今しかできないことをやろうよ。」

「君の24歳の5月、っていうこの瞬間はもう戻ってこないんだよ。」
「仕事はいつでもできるじゃない。迷惑、なんて思われるのも結局一瞬だけだし。」
「その時感じた幸せが、これからの人生を豊かにしていくんだよ。」
「『やらなきゃ』とか『いかなきゃ』って感情は君の人生をちっとも豊かにしやしない。お金の話じゃあないよ。」
「楽しみは先延ばしにせず前倒ししちゃおう。」
「楽しいから幸せなんじゃなくて、幸せだから楽しいんだ。」

 

「そっかー、そうだよねぇ、そうだよね。」

 

 

 

「ひぃー それにしてもだいぶ汗かいたなぁ。…そろそろ出ない?」

 

「うん。」

 

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以上のやりとりは、つい先ほどまでいた新宿の某サウナ内で交わされた会話である。

 

私は終始うつむいていたため、後ろ姿しかみていないが、

二人で会話していたのは間違いない。

一人で腹話術の練習をしていたのではない…と思う。

 

無論、本場のフィンランドにあるような男女混浴のサウナではない。

れっきとした男湯の中に併設されている専用サウナである。

 

自分を「わたし」と称していたほうは、ワンピースを着るのだろうか。

 

創造力が、試されている。

 

ボランティアに喜んで参加する人をどう思うか

「ボランティアするやつって、どう思う?」

 

昨日、不意に友達にこんなことを訊かれた。

 
そんなん自分の時間なんだし、好きにやったらいいんじゃない?

その場ではそう言って終わったのだけど、
その後なにか引っかかってモヤモヤしていたので

考えたこと書き出しておこうとおもって今これを書いている。

 

友人の質問の意図としては、自分が自由にできる時間を
(時間が余っているわけでもないのに)
無報酬の労働に充てるやつが理解ができない。

みたいなノリだったと思う。

 

断っておくと、自分はこれまでボランティア活動というものを

したことはほとんど無い。

せいぜい子どものころの町内会の草刈りとかそんなレベルである。
今のボランティアを取り巻く状況とか見識もまったくない。

 

ボランティアに参加することで

誰かの役に立つことに喜びを見出していたり、

普段の生活では得られない充足感をめっちゃ感じたり、

なにか知識や学びを得る目的でやってるなら、

別にいいのではないかとぼくは思っている。

 

フェスとか営利イベントにボランティアで参加するのは、
なんだかフェス好き人間の好意につけこんでるというか、

やりがい搾取なかんじがして好きじゃないなーと思うが、

それはまた別の話。

 

ただ、だれかの役に立つ、貢献するのはいいことだろうけど、
「役に立ってる自分には価値がある」みたいな

感覚があるのであれば、注意したほうがいいんじゃないだろうか。

 

もしそんな考え方をしていると、
ボランティアなり仕事なり、

自分が役立っていると思うことができなくなると
「自分は生きる価値が無い」という思考になる。

 

人はただ在ること、生きていることに価値がある。

なにもしなくてもいい。

生きているだけで、いい。

 

ボランティアに関わらず仕事でもなんでも言えると思うけれど、

それを始めた動機や、どういうエネルギーでもって続けるかで、

同じことをしていても、その人ごとに得られる結果なり現実は

変わってくると思う。

そのあたりはまた時間があるときに考えてみたい。 

 

友人のこと

18〜19歳の時分によく遊んでいた友人がいる。

 

彼は少女マンガからそのまま抜け出てきたような、

色白で端正な目鼻立ちをした美貌の持ち主だった。

 

兄弟は上に姉が3人という女系家族の末っ子で、

おっとりした話し方でかわらしい。

純朴な性格でもあったので、周囲からはいじられキャラとして愛されていた。

 

彼とは同じ高校で、クラスは別だったために在学中はあまり接点がなかったが、

高校卒業後、共通の友人数人と飲みに行く機会があった。

そこで我々はすっかり意気投合してしまい、以降よく遊ぶようになった。

彼はぼくにくるりスーパーカーを教えてくれた。
エリオット・スミスを初めて教えてくれたのも彼だった。

 

一緒に居酒屋や近所のバーで酒をのんだ帰路、
エリオット・スミスの"Miss Misery"を口ずさみながら

線路沿いの細い坂道を二人で歩いてぼくの家まで帰り、

色々他愛のないことを話しながらそのまま寝入ってしまったりしたこともあった。

 

常磐道を車でひた走り、仙台まで一緒にハナレグミ(だったと思う)の

ライブを見にいった思い出もある。

彼は「会社のオヤジたちは車と野球とパチンコのことばかり話している。」
「まわりに好きな音楽を話せる仲間がいなくてつまらない。」

「好きな音楽のことを話せる友だちは本当ににーのくんくらいしかいないんだ。」

そんなことを時々ぼやいた。


それは自分の職場も同じだった。
営業所が違うものの、ぼくらは同じ大手企業で働いていた。

多分、彼もぼくと同じような環境で鬱々と過ごしていたのだろう。

職場は閉塞感しかなかった。

 

ちなみに、ぼくはその後働いていた会社を4年勤めて辞めるのだけど、

ジョゼと虎と魚たちサウンドトラックCDを彼に借りたまま引越してしまい、
会社をやめてずいぶん後になってから「返しに行くよ」と彼に連絡したことがある。

 

その時、彼からは「いいよいいよ、あげるよ。」とメールが返ってきて、
以降そのまま会うこともなく今に至っている。

 

連絡もぜんぜんとっていないけれど、彼はどうしているだろう。
結婚してるかな。元気だろうか。

 


Elliott Smith Miss MIsery

20160124雑感

 

昨日TSUTAYAでたまたま手にとったWIREDが人工知能の特集号で、いろいろ読んでいた。その後別の棚で東城百合子の「家庭でできる自然療法」を見つけて、思わず買った。

電子書籍はまだでていないようなのだけれど

(他に電子化されている作品もあるので、出版社の意向じゃないかとは思う)、

これは実家に同じ本がおいてあって、

家においてあれば絶対役立つだろうとおもって買ってしまったのだ。

(生姜湿布とかかなりめんどくさそうではあるけど。)

 

それで、A.Iが発達した未来を色々想像していたのだけど、

シンギュラリティが起きた未来でも東城百合子さんに代表されるような

自然療法は継承されているだろうか。ということを考えていた。

引き継がれないような気がする。

AIが高度に発達した未来ではナノボットが開発され、
血中に必要な赤血球も血液でなくナノボットが運ぶのだという。
要するに、血液を送り出す心臓が必要なくなるのだと。

どういうことだろう?

心臓が停止したりすれば血が止まるから、

血や酸素が体内に行き渡らなくなるから人は死ぬ。
子どものころに教わった。常識ではないか。


脳はスキャンし保存、アップロード、再生ができるという。
感情・記憶・思考パターンから体を動かす癖までその人のあらゆる要素が
別の体を与えさえすれば再現できるのだという。
魂ってなんなんだろうねっていう世界。


そのうち臓器ドナーの意思確認みたいに脳のスキャンを望む望まない、みたいなカードをみんながもつ世界がやってくるのだろうか。


そして本人は望んでいないのに家族が望み、金をエンジニア
(もはや医師ではなくAI移植専門の技術者がいるのだろう)に支払ったがために

別の体でもって再現されたお父さんが

「なんでオレを復元したんだこのやろうばかやろう!」って
怒り出したり、色々新たな課題や問題が起こるのだろうか。

でもその頃にはAIも発達してるから対策というか対処も当然考えられていそうだ。

全員が復元済みの人、みたいなSF家族も現れるのだろうか。

残った細胞から元の体も再生できるのであれば、同じ体で同じように生きる人も現れそうだ。

なんだかよくわからくなってきた。

人口はどうなるのだろう。

 

シンギュラリティが起きるのは2045年と言われているので、

ぼくもまだ生きているかもしれない。

シンギュラリティとAIは人々の死生観にどんな影響を及ぼすのだろう…

うーん、ぽっくり死にたい。 

 

 

ちなみに今日本屋で最後に立ち読みした本は「ポックリ死ぬためのコツ」でした。

 

スーパー銭湯巡りをしたい。

先日大江戸温泉に行ってみたら、非常に良かった。

良かったというのは、心身によい影響があった、という意味でだ。

 

普段湯船には使わずシャワーで済ませてしまうことが多い。

母親によく「湯船につかるんだよ。シャワーだけじゃだめよ」と言われる。

 

風呂につかる機会というと、

本当に友人と温泉にいったりとか、

会社で合宿いったときくらいしかない。

 

大江戸温泉ではでかい湯船につかって、露天にもつかって、

サウナにはいって、

そのあと水風呂はいって、

風呂あがりにコーヒー牛乳を飲んで、

寿司をあてに八海山をちびちびやって。

 

ひっっじょ〜〜〜〜〜〜〜〜に開放的だった!!

 

大江戸温泉は6月はじめの平日にいったのだけれど、

明らかに外国人環境客が多かった。

 

多分客の5〜6割は外国人だ。

聞こえてくる言語も中国語、韓国語、英語、仏後…様々だ。

館内の従業員はあまり英語対応はあまりできていないようだった。

大江戸温泉、外資に買収されたときいたけれど、

中身が大幅に変わったとか、そういうわけではなさそうな感じ。

 

マッサージを受けたのだけど、マッサージ師?

(資格とかあるのかどうか不明 多分もってない)は

全員中国人ぽいかんじの中年男女ばかりだった。

 

ぼくを担当してくれたのも人の良さそうなおじさんだった。

お金いくらもらってるんだろうな〜

料金は足もみ&全身コース45分で5,300円だったと思う。

 

kindle読みながらおでんをつついたり、

八海山片手に寿司をつまみながら行き交う人々を眺めていた。

聞こえてくる会話が明らかに日本語より外国語のほうが多くて、

本当におれは日本にいるのか!? 勘違いするレベルだった。

 

そんで、風呂が最高に気持ちいいことをあらためて実感したので、

せっかく温泉いっぱいわいてる国に住んでるんだから、

もっと色々いってみよう、と思った次第です。

 

とりあえず次はさやの湯処に行く予定です。

 

オススメの銭湯などありましたらぜひおしえてください〜!

 

 

 

同じものをどれだけ食べ続けたら

土曜日のオフィスは人が少なくものすごく静かだ。

 

昨夜催された社内イベントの残り物のスイカが冷蔵庫にあったが、誰も食べる人もいなそうだったので引き受けることにした。

 

スイカを食べるのは本当に久しぶりだった。

ここ2〜3年まともに食べた記憶がない。(スイカどころか果物自体あまりとった思い出がない)

 


スイカを食べながら親父のことをぼんやり思い出した。

うちの親父はガキの頃にかぼちゃとすいかを死ぬほど食べさせられたらしく、スイカとかぼちゃが嫌いなようだ。
大人にになってかぼちゃとスイカはまったく食べていいないらしい。
実際、自分も物心ついてからおやじがスイカを食べる姿をみたことがない。
母も心得ていて、かぼちゃの料理を親父に出したりはしない。

 

見たくもないほど、嫌いになるほど食べさせられるとはどの程度なのか、想像がつかない。

ぼくは幸か不幸か、死ぬほど同じものを食べ続けることを強制されたような経験はないので、食べ続けたことが原因で嫌いになった食べ物はない。

最近だとトロピカーナの250mlパックにはまっていて毎日2本飲んでいる。飲みつつづけておよそ一ヶ月が経とうとしているが、今のところ飽きることなく飲んでいる。


パンも大好きで玄米おむすびを買わなかったときはだいたいパンを食べている。
もう5〜6年パンを食べ続ける生活を続けているが、今もパンは大好きだ。

菓子パンとか甘いパンは好きでないのでもともと食べない。
ハードなふつうのパン、プレーンなやつとか、あとはチーズやらパンやらベーコンが挟んであるものを特に好んで食べる。


バゲットは毎日食べても多分飽きない自信がある。
市販の柔らかいパンは食べないけれど、街のベーカリーで売ってるパンはたいてい好きだ。
小麦の良し悪しがわかるような特殊能力もないが、そもそも行くお店がそういう素材にこだわっているお店に限られている

(立地など総合的な点からみても単価が高い店が多い)
よく考えたらクロワッサン1つに320円だすとかアホだな、と思わないこともないけれど
(City Bakeryのプレッツェルクロワッサンは320円する)まぁ美味いしいいかとも思う。

 

話がずいぶんそれた。人はひとつのものを食べ続けるとその食べ物が嫌いになるのか、
という話だった。

食べ続けた期間だけでなく、どのような質のものを食べ続けたのか、みたいなところもあるだろう。
ぼくの母親は弟が生まれつき病弱ということもあって、食べ物には本当に気を使っている。
野菜に関しても極力有希無農薬を選んでいたようだ。
一時期は家の裏で畑を耕し、食卓にでる野菜の8割を自給していた時代もあった。
そんなわけでぼくは家においてまずい野菜というのを食べた記憶があまりない。

 

まずいものを食べ続けされられたらなにか拒否反応が生まれるのは必然じゃないだろうか。

 

 

はっぴんえんどと大瀧詠一の記憶

物心ついてはじめて聞いたのは大瀧詠一のさらばシベリア鉄道だった。

大瀧詠一が歌っているバージョンだ。
もともとは太田裕美が歌ってるみたいだけど、知らなかった。
5歳か6歳か、佐賀のばあちゃんちにかえったときに聴いた。
その時親が乗っていたパルサーのなかでも、カセットできいたかもしれない。

もちろんそのときは曲名も大瀧詠一のことも知らない。

「冬の旅人」の歌だと思っていた。

メロディも歌詞も強烈に脳内に焼きついた。

「さらばシベリア鉄道」は定期的にぼくの脳内で流れることになった。

中学、高校生くらいになって「あれはなんという曲だったか」ずっと気になっていた。

 

時はながれて、19歳のころだろうか。
日立のブックワンではっぴんえんどのトリビュートアルバムに出会った。
空気公団とかスピッツとか好きなアーティストの名前が見えたので興味を持って買った。


はじめはジャケットの淡いパステルの雰囲気から

空気公団のアルバムのように思っていたように記憶している。

つまりはっぴんえんどをそもそも知らなかったということだ。

アルバムを聴いたあとも空気公団のアルバムと勘違いしていた節がある。

(その頃すでにネットは出現していたがぼくはまだ使っていなかった。)

 

今、手元のiPodを眺めてみたら、

昔のぼくは多くの曲に感慨をもたなかったようで
スピッツの「12月の雨」、くるりの「あやか市の動物園」。
空気公団の「いらいら」My little loverの「風をあつめて」の4曲しか入っていなかった。

今あのトリビュート盤が手元にあるかどうかはちょっと怪しい。
手放したように思う。

 

更に時を経て、ぼくが世田谷の上町に移ってきてしばらくたったある冬の日、
母親に「昔聴いていたあの冬の旅人の曲はなんというのだっけ?」と聴いて

曲名と歌い手の名前が判明した。

(もしかしたらもう少し前に聴いていたかもしれない。)

 

知っている曲とかピンときた曲で松本隆作詞の曲は多いけれど、
大人になるまでだれが作詞したのかあまり気にしたことはなかった。
さっき調べてみたらさらばシベリア鉄道もやっぱり松本隆が作詞していた。

 

細野さんはあまり知らなかった。
坂本龍一の過去の作品をさかのぼったときにYMOでうっすら知ったり、
なんとなくトリビュートを買って知ったり、という程度だ。

大瀧詠一は声が好きだったが「さらばシベリア鉄道」以外の曲はあまり知らなかったし
積極的に聴こうとも思わなかった。

 

なんでまたこんな思い出を書いているのかというと、
草野マサムネが歌う「水中メガネ」にうっかり涙してしまったからだ。